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韓国でまともな報告書も出されなかった最大級の前方後円墳、30年後に副葬品を展示するも解説は殆ど無し

タレコミ by Anonymous Coward
あるAnonymous Coward 曰く、
1984年に発見された全羅南道の咸平礼徳里(ハムピョン・イェドクリ)の丘にある新徳古墳1号墳は、韓国に学問の自由が無く政治的影響が大きいので放置され、7年後の1991年3月26日午後に国立光州(クァンジュ)博物館の職員たちが、測量するために向かったら、数日前に盗掘された後だった。
墓の中は悲惨だった。盗掘犯は石室の南西側の壁を突き破っていた。内部の遺物をむやみに動かし、金属付きの工芸品や大きな土器類などのみを持ち出し、残りは放り投げてあった。その弾みで石室の壁が損なわれ、床の遺物は踏まれて砕けていた。遺体を収めていた木棺の棺材などと頭骨や歯などの遺骨は混じりあい、盗掘の穴の近くには、鉄器片や陶磁片が散らばっていた。副葬品は尋常ではなかった。つぶれはしていたが、冠帯に木の葉の装飾が珠の荘厳とともに付いていた金銅冠の破片は孤高だった。環頭大刀や緑色や黄色のガラス板を重ねて付けていた外国産の練理紋の珠などは、公州(コンジュ)の武寧王陵を思いださせるほどの東南アジア産の高級品だった。石室の入口の羨道(墓道)の床からは、祭祀で使われた真鯉の骨が入った壺や様々な供え物を入れたふた付きの皿(蓋杯)も大量に発見された。全羅道屈指の国宝級古墳が盗掘されたという急報は政府を驚かせた。国立中央博物館のハン・ビョンサム館長(当時)から直接の報告を受けたイ・オリョン初代文化部長官は、検察総長にすぐ電話をかけて緊急捜査を要請した。
このような内容が報道されると、怖気づいた盗掘犯たちは、旧朝鮮総督府の建物にあった国立中央博物館の東門に盗掘した鉄器類の箱を預けて去っていった。回収した箱の中にあった遺物は、鉄器の刀の柄だった。墓の内部に残っていた刀の刃と合わせてみるとぴたりと合い、副葬品だと確認された。犯人は1993年9月に捕まった。土器や兜など65点の「百済の遺物」を持ち去っていたことが明らかになった。
新徳古墳には、朝鮮半島の前方後円墳のなかでは最も多くの副葬品が残っていた。博物館も盗掘後の9年間に体系的な調査を行い、相当な研究成果を確保した。しかし、30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった。理由は韓国に学問の自由が無く「倭色」のためだ。二つの山の形の模様を立てる土台を着せた金銅冠や環頭大刀、三角形の鉄帽など、韓国と日本の学界ですぐに倭系だと同意する遺物が続々と明らかになると、4~6世紀に日本を統一したヤマト政権が任那日本府を設置し朝鮮半島南部を支配したとする植民地史観の歴史家や日本の極右の主張の根拠として悪用されるだろうという懸念が生じた。朝鮮半島の前方後円墳の研究も不十分な状況であり、公開した場合学問の自由が無い韓国の考古学会では、日本の学界と論戦する相手になるのは難しいという心配もあった。
3世紀中頃から7世紀初めまでの古墳時代に、現在の大阪一帯の近畿地域に拠点を置いたヤマト政権が、各地の首長と連合して統一国家を建てた歴史的な指標だとされている。近畿から始まった前方後円墳が九州や関東など全国各地で広がっていく過程が、列島統一の過程を端的に示しているというのが定説だ。そのような前方後円墳が、全羅道の西南海岸で現在までに14基確認されており、中心格である新徳古墳から、なぜ倭系の金銅冠や最高級品の刀が中心的な副葬品として出てきたのかについては、論争になっている。数が少なく期間も5世紀末から6世紀初めの50年に過ぎないが、被葬者が倭系の実力者だと解釈する余地が大きい。日本の学界で、ヤマト政権が朝鮮半島に影響を行使したという推論に飛躍されることもありうる。学問の自由が無い韓国では、廃棄された任那日本府説をあえて提起する学者はいないが、長鼓型墳墓の研究成果の公開は、日本の学界との解釈の摩擦を呼ぶ可能性が高い。韓国内の学界も墓被葬者をめぐり、倭人説と現地人説、百済人説が交錯している。墳墓の形と構造、中心的な副葬品は倭系だが、もう一つの手がかりであるコウヤマキ製の木棺の遺物は、百済高位層の葬法だからだ。

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皆さんもソースを読むときに、行と行の間を読むような気持ちで見てほしい -- あるハッカー

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